戦後の神戸で育った白人牧師が語る日本とアメリカの歴史と記憶|宣教師と復興の物語
2025.09.22 幸せのヒント
戦後の神戸で育った白人牧師が語る日本とアメリカ
【シリーズ No.1】
ウェイン牧師はマンハッタン日米合同教会の牧師です。日本で育った白人アメリカ人として、戦後の日本について語ります。
Q:ウェイン牧師、日本語が流暢なのですね。初めて日本を訪れたのはいつですか?どんな印象でしたか?
A: 私はオーストラリアで生まれましたが、生後すぐに日本に連れて行かれました。戦後数年経った頃でした。日本語が最初の言語であり、同時に英語も学びました。両親は戦後、最初のキリスト教宣教師の一人として日本に入国しました。彼らは忙しい日々を送り、私はほとんどの時間を日本人のお手伝いさんと過ごしました。彼女たちを「女中さん」と呼んでいました。
最初の記憶は、2歳か3歳の頃、彼女と九州の田舎を歩いていたことです。自転車の前に私を乗せ、買い物に連れて行ってくれたり、当時は洗濯機が無かったため川に連れて行って洗濯をしたりもしました。全ての会話は日本語でした。両親がいないときは、畳の上の布団で寝かせてくれました。
その後、神戸に引っ越し、学生時代のほとんどを過ごしました。当時の神戸にはまだ爆撃の爪痕が残っており、山では不発弾を見つけることもありました。ガスやキッチンがない時代で、人々は夕方になると道端で薪や炭を使って料理をしていました。子どもたちは土の道路で遊び、美味しい魚やご飯の匂いで夕飯時を知ったものです。めんこや「ラムネ玉」のおもちゃで遊んだ記憶もあります。それは「二度と戻ってこない素晴らしい子供時代」でした。
Q:戦後の日本は困難な状況でしたね。宣教師の支援について教えてください。
A: 1946年、マッカーサー将軍は、昭和天皇の「人間宣言」を受け、日本人が精神的支えを失ったことを考慮し、キリスト教宣教師を歓迎する方針を発表しました。宣教師たちは富ではなく神のメッセージを伝えるために来日しました。
私の両親もその一人でした。母は21歳で日本に到着しました。当時は人々が飢えており、GHQが輸入した食糧も不足していました。そこで両親はボランティアを募り、食料を集めて配布しました。私が幼い頃、両親が丘を登り、洞窟に隠れていた人々を見つけて食料を渡したことを覚えています。母が洞窟の中で出会った女性にリンゴを手渡し、その女性が涙ながらに感謝していた姿は今も鮮明です。
両親はやがて別府に教会を建てようと試みました。アメリカから資金や衣服を集め、大規模なバザーを開いて数百人が訪れました。2、3年後、父はその教会を日本人牧師に引き継ぎ、新たな使命のため神戸へ向かいました。
このような宣教活動と奉仕は多くの宣教師によって繰り返され、戦後の日本の教会に活気をもたらし、日本の復興と再生にも貢献したと考えています。
(次回はシリーズ No.2です)

📍 日米合同教会
255 7th Ave, New York, NY 10001
infojauc@gmail.com
http://www.jauc.org
解説:スタンレー・ウェイン牧師
編集:菅原知子
※日米合同教会は皆様を歓迎いたします!当教会はエホバの証人・統一教会・モルモン教などのカルト団体とは一切関係ありません。





